長宗我部元親

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長宗我部元親

長宗我部元親

 

 

土佐に誕生した最初の英雄・長宗我部元親。
土佐統一、そして四国統一をも成し遂げた人物として有名です。「姫若子」から「土佐の出来人」へ―。その活躍の陰には、民を思い、夢を追い続ける心がありました。

 

 

長宗我部元親の生涯

「姫若子」と呼ばれて

長宗我部元親は、天文8年(1539年)、高知市浦戸の岡豊城に誕生しました。父親は長宗我部国親。長宗我部氏は戦国時代の「土佐七雄」にも数えられるほど勢力を誇っていましたが、元親の祖父・元秀が本山・山田・吉良・太平氏らの連合軍に岡豊城を落城され自害。国親は中村(現四万十市)を治めていた一條氏の保護を受けます。このような状況の中誕生した元親は色白で軟弱、無口で、とても偉大な戦国武将の誕生とは思えなかったとか。家臣たちは元親のことを密かに「姫若子」と呼び、軽んじられていたそうです。

元親の初陣

そんな元親に遂に初陣の時がやってきました。永禄3年、長宗我部氏の敵であった本山氏が長浜城の元親を攻めてきたのです。この時倍以上の軍勢を誇る本山氏を相手に劣勢を強いられるも、元親は自ら槍を持って戦います。それを見た全軍は息を吹き返し、本山氏に打ち勝つのです。これを機に元親は家臣からの信頼を獲得。ちょうど同じ年に国親が亡くなり、元親は家督を相続することとなるのです。

土佐統一

元親はその後も勢力を誇っていた豪族を相手に戦いを繰り広げます。当時土佐の東部、安芸郡を治めていたのが安芸国虎でした。国虎は何度か岡豊城へ攻め込みますが失敗。逆に1569年、元親に拠点である安芸城に乗り込まれ、降伏します。この時安芸氏の家臣の中で寝返る者が現れ、井戸に毒を入れたのが敗戦の一因となったという説もあるようです。さらに長年の宿敵であった本山氏も、朝倉城での攻防の末1568年に降伏。元親は、かつて保護を受けた一條氏にもはや力がないのを見て取ると、これを伊予の国に追放。そして遂に土佐を統一するのです。「姫若子」だった元親は、「土佐の出来人」と呼ばれるまでに成長していました。

一領具足の登用

長宗我部元親が勢力を伸ばした陰には、「一領具足」と呼ばれる人々の存在がありました。一領具足とは、普段は農民でありながら、戦いの時だけ兵士として赴く人々のこと。一領とは一そろい、具足とは武器などのことを表わしています。彼らは農作業をする傍に武器を常に置き、召集がかかればいつでも戦いに赴けるようにしていていたそう。農作業によって体が丈夫で、集団行動にも優れていたと言います。長宗我部氏の滅亡後土佐一国は山内氏に任されることになりますが、その支配に最期まで抵抗したのもこの人たちでした。浦戸城に立てこもり「浦戸一揆」と呼ばれる抵抗も起こしています。

四国統一

元親が土佐統一を成し遂げた頃本土で勢力を伸ばしていたのが、織田信長でした。元親は明智光秀の重臣・斉藤利三の妹を正室に迎え、信長との関係を築きます。そして信長と同盟を組み、四国征伐へ乗り出そうと考えたのです。しかし信長は元親が四国を支配するとこを良しとはせず、三男・織田信孝らを中心とした四国征伐軍を編成。元親と敵対します。しかしちょうどその時「本能寺の変」が起こり、信長は自刃。これを絶好の機会と見た元親は、阿波・讃岐を制圧。さらに天正13年(1585)年には伊予も支配下に置き、四国統一を成功させたのです。

豊臣秀吉の四国征伐

しかし元親の四国統一は、そう長くは続きませんでした。信長の跡を継いだ豊臣秀吉が四国征伐へと乗り出してきたのです。元親は伊予一国を差し出すことで和睦を求めようとしましたが、秀吉は拒絶。10万を超える軍勢を率いて押し寄せてきました。そしてついに元親は降伏。土佐一国のみを任されることになったのです。

長男・信親の死

秀吉の目は、今度は九州へと向いていました。その支配下に入った元親は、島津氏の制圧に苦しむ豊後大友氏を救うため九州へと向かうことになります。しかし戸次川の戦いにおいて、四国軍の総大将・仙石秀久が作戦を誤り、島津氏の軍に大敗。その戦いで元親の嫡男・信親が討死してしまうのです。この時信親は22歳。文武に優れ、人望も厚かったと言います。元親は信親の死を嘆き悲しみ、自らも命を絶とうとしたとか。家来によって何とか引き止められるも、元親はその後人が変わったようになってしまったと言います。その翌年の戦いで島津氏は降伏し、秀吉の九州征伐は成功。しかし元親に以前の精彩は戻りませんでした。

元親の最期

土佐へ引き上げた元親は岡豊城を廃し、現在の高知城の場所に大高坂城を築きます。しかし度々水害に悩まされたため、3年余りで浦戸城へと移転。元親は家督の継承を四男の盛親に定め、反対する家臣に切腹を命令。さらには三男の津野親忠を幽閉したりもしたそうです。信親の死によって、領土拡張の夢も家臣への配慮も失ってしまった元親。慶長4年、ついに病に倒れ、61年の生涯を閉じることになりました

長宗我部元親の人柄を探る

人望を集めた元親

土佐統一、そして一度は四国統一まで成し遂げた、長宗我部元親。その陰には家来や民を思う心がありました。

土佐統一を成し遂げ、四国統一を目指していた元親。そんな元親はある時家臣から、なぜ四国統一を目指すのかと聞かれたそうです。それに対し元親は、「家臣に恩賞を与え、家族が豊かに暮らせるようにするためだ」と答えたとか。秀吉が天下統一を成し遂げた際にもらった饅頭を、自分は一口だけ食べ、後は家来のために持ち帰ったという話も残されています。

元親の民思いの一面は敵にまで及んでいました。当時は降伏させた豪族に対し、裏切りを防ぐために親族を人質に取りました。そして時にはその人質を殺すこともあったと言います。しかし元親は人質を豪族のもとへ送り返したり、自らかくまってやったりしたそうです。さらに敵攻めの際には普通相手の領土の米や麦を刈るものでしたが、元親は「民が食べる分は残してやろう」と全部は刈り取らなかったという話も残されています。

家来や民を思い、夢を追い続けた長宗我部元親。その輝きはしかし、長男の死によって失われてしまったのです

長宗我部元親ゆかりの地

長宗我部元親初陣の像

長宗我部元親が本山氏を相手に戦った長浜の地に、「長宗我部元親初陣の像」が建てられています。「姫若子」から「土佐の出来人」へと変貌を遂げるきっかけとなった元親の初陣。鎧を身にまとい、槍を手にしたその姿からは、若き元親の勇壮な雰囲気が感じられるよう。土佐が誇る英雄の生き様は、今もこの地に息づいています。

土佐料理司・ねぼけ