坂本龍馬

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坂本龍馬坂本龍馬

土佐が、そして日本が誇る偉人・坂本龍馬。
尊敬する歴史上の人物を尋ねれば必ずその名が挙がり、ゆかりの地にはいまだ訪れる人が止まない、日本の英雄です。わずか33年という短い龍馬の生涯―。しかしそこには、現代の日本人をも惹きつけて止まない熱い生き様がありました。

坂本龍馬の生涯

坂本龍馬の誕生 ―「泣き虫」龍馬と「お仁王さん」乙女―

坂本龍馬は天保6年(1835)、坂本八平の次男として高知城下本町に誕生しました。龍馬は5人兄弟の末っ子。幼い頃の龍馬には英雄の影など微塵も感じられず、泣き虫で洟垂れ、寝小便ばかり。学問でも塾から見放される始末でした。そんな龍馬を厳しく指導したのが、すぐ上の姉・乙女。「お仁王さん」と呼ばれた乙女は、身長が5尺8寸(約176cm)、体重が30貫(112・5s)という相撲取りのような体格をしていたとか。そんな乙女は、龍馬が一人前の男になれるように鍛え上げます。そんな乙女のしごきの甲斐もあり、龍馬は次第に一人前の男としての風格を身に付けていくのです。

龍馬の人柄を探る(1)龍馬の誕生エピソード

龍馬の誕生には、英雄の誕生にふさわしいこんな伝説も残されています。それは龍馬の生まれる前の夜のこと。母・幸の夢の中に大きな龍が現れ、勇ましく火を噴いたそうです。さらに次の日、生まれてきた龍馬の背中にはたてがみのような毛が生えていたとか。そこから付けられた名前が「龍馬」。龍馬の人生は、その後まさしく龍のように飛翔していきました

剣術を学ぶ ―龍馬、江戸へ―

龍馬は14、15歳の頃から、鏡川のそばの日根野道場で剣術を学ぶようになります。そこでめきめきと腕を磨いた龍馬は、「小栗流和兵法事目録」を授かります。そしてその後さらに修行に励むべく江戸へと渡るのです。龍馬が江戸に渡った頃、日本はちょうど外国から開国を迫られていました。ペリーの黒船がやってきた際、龍馬も護衛として品川海岸の警備にあたっていたそうです。そして外国船の大きさや武器の多さを目の当たりにし、驚くこととなるのです。坂本龍馬が初めて「外国」へと目を向けることとなったのが、この時でした。しかしこの時まだ尊王攘夷の考えを強く持っていた龍馬は父親に、「外国人の首を討ち取って、土佐に帰ろうと思います。」と手紙を書き送っていました。

龍馬の人柄を探る(2)龍馬を応援した父親

高知県立坂本龍馬記念館には、江戸へ修行に出る際に、龍馬の父・八平が息子に書き与えたと言われる心得が残されています。それに書かれているのは、忠義を忘れず修行に励むこと、道具類にお金を使わないこと、女性に心を奪われてしまわないこと。坂本家の次男として生まれた龍馬には、跡継ぎとしての役目はありませんでした。しかしこの心得からは、父親が龍馬に込めた期待や愛情が感じられます

河田小龍との出会い ―ジョン万次郎の体験記―

江戸から帰った龍馬に、蘭学者・河田小龍との出会いが待っていました。小龍は龍馬に、アメリカへ渡ったある人物の話を聞かせます。それが、ジョン万次郎でした。小龍は龍馬に、万次郎がアメリカで体験したという文化や民主主義を教え、「尊王攘夷にばかりこだわっていても、外国に追いつくことはできない。」と伝えるのです。これを聞いた龍馬は、かたくなな尊王攘夷から海の向こうへと、次第に大きく夢を膨らませることとなるのです

土佐勤王党と脱藩 ―龍馬と半平太―

その頃土佐では、尊王攘夷を志す志士たちが「土佐勤王党」を結成。武市半平太を党首に勢力を強め始めていました。龍馬も27歳の頃、この土佐勤王党に加盟。半平太と龍馬は日本の将来について度々語り合ったと言います。しかしこの頃すでに龍馬は、「藩にこだわっていては、外国のような強い国は作ることができない」と考えていました。そして龍馬は脱藩を決意。文久2年(1862)、澤村惣之丞とともに土佐を後にしたのです。

龍馬の人柄を探る(3)アザとアギ

土佐勤王党を率いる半平太と龍馬は、互いに新しい国家を目指す同志でした。龍馬は半平太を彼のアゴからでていることから「アギ」と呼び、半平太もまた龍馬のほくろの多さから「アザ」と呼んでいたとか。二人は度々半平太の家で日本の未来について語り合っていましたが、そんな時必ず龍馬が武市邸の庭で小便をするので、半平太の妻が嘆いたというおもしろい話も残されています。しかし藩という枠を超えて国づくりを進めようとする龍馬に、尊王攘夷にこだわる半平太は反発。やがて脱藩した龍馬に半平太は、「あいつは土佐にあだたぬ(おさまらない)奴だ。」と言ったそうです。しかしその後の政変によって、土佐勤王党の弾圧が始まり、半平太も投獄。半平太の死の知らせを受けた龍馬は嘆き悲しみ、必ずや新しい国家を作ってみせると誓ったと言います

勝海舟との出会い ―アメリカを知る男―

脱藩した坂本龍馬に再び、運命の出会いが待ち受けていました。その相手が勝海舟です。勝海舟は1860年、福沢諭吉らと共にアメリカへ渡ったことのある人物でした。海舟は龍馬に外国のことを話して聞かせます。そして「大事なことは航海術を学び、外国のような大きな船を持つことだ」と教えるのです。その話に感銘を受けた龍馬は海舟の弟子となり、航海術を学び始めます。その頃龍馬が姉・乙女へ宛てた手紙では、海舟のことを「日本第一の人物」と称えている文面が。「少しエヘンに顔してひそかにおり候・・・」と海舟の弟子になったことをユニークに伝えています。同じく海舟も龍馬の度量の大きさを感じていたそうで、後に「坂本龍馬は最初俺を殺しにきたんだが、なかなかの奴さ。」と語ったとか。そして龍馬は海舟から山内容堂への働きかけによって、脱藩の罪を許してもらうのです

「亀山社中」と薩長同盟 ―後世に残る活躍―

龍馬はやがて長崎で「亀山社中」を結成。同志とともに海運事業を行うこととなります。この頃龍馬は、藩同士がいつまでも争うのではなく、一致して新たな国づくりを目指すことが重要だと考えていました。龍馬は中岡慎太郎と手を組み、当時犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩の間を奔走。薩摩藩の名で買った武器を長州藩へ、長州藩の米を薩摩藩へと送るなどして、両者の溝を埋めていきました。こうしてついに慶応2年(1866)1月21日、「薩長同盟」を成立させるのです。

龍馬の人柄を探る(4)薩長同盟までの苦労

薩長同盟を成立させるまでの道のりは、長く厳しいものでした。1865年5月、龍馬が長州藩の桂小五郎(木戸孝允)を、中岡慎太郎が薩摩藩の西郷隆盛を説得し、両者の会談を成立させようとしていました。しかしそこに現れたのは慎太郎一人。肝心の西郷の姿がありません。桂は裏切られたと腹を立て、同盟の成立は不可能に終わったかに見えました。龍馬は急いで西郷の元へ走り、「今は藩がどうとか言っている場合ではない!」と説得。しかしその後なんとか行われた会談でも、両者は長年のわだかまりから口火を切ろうとしません。数日経っても話し合いがまったく進んでいないことを知った龍馬はついに激高。「これは日本全土の問題なんじゃ!」と叱咤し、ついに同盟成立を成し遂げたのです

寺田屋の変と新婚旅行 ―お龍との出会い―

こうして「薩長同盟」を成立させた龍馬に、最大の危機が訪れます。同盟成立2日後の夜、龍馬は京都の寺田屋で同志の三吉慎蔵と苦労話をしていました。その宿の周りを、龍馬を狙う敵が取り囲んでいたのです。寺田屋の娘・お龍がいち早くそれに気づき、階段を駆け上がって来て危険を知らせます。二人は武器を持って戦い、大怪我を負いながらも命からがら逃げ延びることができました。これを機に龍馬はお龍と結婚。さらに龍馬の治療を兼ねて、帰郷する西郷隆盛らとともに二人で薩摩へと出かけて行きました。実はこれが日本人最初の“新婚旅行”になったのだとか。龍馬がその旅の様子を絵入りで記した手紙が、姉・乙女に送られています

船中八策 ―日本を動かした龍馬―

龍馬はやがて、土佐藩の要職にあった後藤象二郎と会見。当時土佐藩は倒幕の動きを止められないと感じつつも、恩のある幕府の顔を立て、さらに藩の力を見せ付けることはできないかと考えていました。そんな中龍馬は、新政府の基本構想となる「船中八策」を提案します。そこには政権を天皇に返すこと、議会で話し合いを行うこと、憲法を作ることなどが書かれていました。これを妙案と見た象二郎は、幕府の勢力を保ったまま天皇中心の国家を作り、なおかつ土佐藩の力が誇示できるようにと、大政奉還させるよう山内容堂に進言。こうして慶応3年(1867)大政奉還は成立。龍馬の案が国家を大きく動かしたのです。

龍馬の人柄を探る(5)「役人は性に合わぬ」

大政奉還が成された翌日、新政府の仕組みを記した職制案が提出。しかし挙げられた役職の中に、龍馬の名前がありません。それを見た西郷隆盛は「お前さんの名前がないではないか」と言います。しかし龍馬は「役人は性に合わぬ」ときっぱり否定。それなら何をするのかと尋ねた西郷に対し、龍馬は「世界の海援隊でもやりましょうかの。」と答えたとか。この様子を見ていた陸奥宗光は後に、「あの時の龍馬は西郷の2倍も3倍も大きく見えた」と語ったそうです

坂本龍馬、暗殺 ―英雄の死―

こうして新しい国づくりに大きな役割を果たすようになった坂本龍馬。しかし、それは同時に多くの敵を作ることにもなりました。坂本龍馬33歳の誕生日にあたる1867年11月15日、京都の近江屋で慎太郎と会談中、何者かによって暗殺。志半ば、そして、新国家半ばで、命を落とすこととなったのです。

龍馬の暗殺については、京都見廻り組実行説や新撰組実効説、さらには薩摩藩実行説など様々な説が飛び交い、その実態は今も謎に包まれています。しかしいずれにしても、坂本龍馬という人物が成し遂げた功績とその熱い生き様は、今も人々の心に残されて消えることがないのです

坂本龍馬ゆかりの地

坂本龍馬像

高知市桂浜に建つ、坂本龍馬像。高知県の中でも人気の観光スポットとなっています。坂本龍馬像は昭和3年、彼に憧れる若者たちによる募金活動の末に建立。平成11年に修復が行われました。毎年龍馬の生まれた11月には「龍馬祭り」が行われ、龍馬像と同じ目線で太平洋が眺めることができるようになります。仁王立ちで、はるか太平洋の先を見つめる龍馬像。その姿からは、彼の熱い生き様が今も感じられます。

→坂本龍馬像

高知県立坂本龍馬記念館

龍馬像と同じく高知市桂浜に建つのが、高知県立坂本龍馬記念館。モダンなデザインの館内には、龍馬の生涯や貴重な資料などが多数展示されています。中でも興味深いのは龍馬が書いたと言われる手紙。独特の文面からは、彼の人柄が伝わってくるようです。さらに、近江屋で暗殺された際のものと言われる血痕がついた屏風や、高杉晋作から贈られたピストルも。坂本龍馬像と合わせて、是非訪れてみたい場所です。

→高知県立坂本龍馬記念館

高知市立龍馬の生まれたまち記念館

彼の生まれ育った高知市上町に、2004年、「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」が開館しました。 展示館には、村上豊氏が描いた少年時代の龍馬。その先には、龍馬を育てた町や家族、友人たちの様子がジオラマや映像などを使って分かりやすく紹介されています。バーチャルリアリティ装置によって、少年時代からの龍馬の生き様を追体験できるコーナーも。

→高知市立龍馬の生まれたまち記念館

坂本龍馬脱藩の道

高知県梼原町から愛媛県へと抜ける峠道。この道が「坂本龍馬脱藩の道」です。龍馬は文久2年(1862)、澤村惣之丞とともにこの道を通って脱藩。後にも維新を夢見る多くの志士たちがここを通ったと言います。日本の道百選にも選ばれている「維新の道」。入口には、龍馬や惣之丞をはじめとする8人の志士の銅像が建てられ、熱き志を今に伝えています。

土佐料理司・ねぼけ